天神橋一丁目商店街・カルチャー 「大阪天満宮」
650年(白雉元年)孝徳天皇が造営された難波長柄豊崎宮の、西北を守る神として大将軍社という神社がこの地に建てられました。
901年(延喜元年)、菅原道真公は太宰府へ向かう途中にこの大将軍社に参り、旅の無事を祈願しました。道真公が太宰府で亡くなり、その50年あまり後の949年(天暦三年)この大将軍社の前に一夜にして七本の松が生え、夜毎にその梢を光らせたといいます。
これを聞いた村上天皇の勅命によってここにお社を建て、道真公の御霊を厚くお祀りしたのが大阪天満宮の起源と伝わります。
現在の本殿は、1843年(天保十四年)に再建されました。大阪天満宮は、江戸時代の記録に残るだけで七度もの火災に遭い、なかでも大阪市中を焼き尽くした1724年(享保九年)の妙知焼けや、大塩平八郎の乱による1837年(天保八年)の大火では全焼しました。
その6年後に、大阪市中の氏子などによって、現在の本殿が再建されました。
先の大東亜戦争においても、焼ける自分の家を横目に「天神さんを焼いたらあかん」と氏子たちが、天満宮を守った心意気は今も語り継がれています。
天満宮では牛の像が良く見受けられます。天神様と牛の歴史的な関係は古くから深い物があります。
菅原道真公は、承和12年 (845)に誕生しましたが、この年は乙丑(きのとうし)でありました。また、延喜3年に亡くなりましたが、轜車(じしゃ)を「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との遺言で、その場所を墓所と定めたのです。その場所が、都府楼の北東(丑寅)の方であったなどの多くの牛との関わりや伝承があり、天神信仰には牛がつきものとなり、「神のみつかわしめ」としてのつながりを持つようになりました。
さて、毎年7月25日に行われる日本三大祭りの一つである天神祭は、年に一回菅原道真公(天神さま)の縁日に、大阪の街が栄えている様子をご覧になって楽しんでいただくためのお祭です。
天神祭では6月下旬吉日 – 7月25日の約1か月間に亘り諸行事が行われますが、 特に有名な神事として、祭りの開幕を告げる厳かな神事「鉾流神事 (ほこながししんじ)」が7月24日宵宮に行われます。
8時50分ごろ、斎船で堂島川の中ほどに漕ぎ出し、菅公御歌の神楽歌「鉾流歌」の調べが奏される中、 船上から神童が神鉾を流し、御神意を伺うとともに神職は祓物を河中に流して氏子市民の無病息災と市中平穏が祈願されます。 この鉾流神事の大役を務めるのは、この地区の西天満小学校の生徒から選定される慣例で、天神祭の幕開けとなる厳かな神事の中心的役割を果たします。
続いて、7月25日本宮では、15:30 頃から祭のメインイベントの一つ「陸渡御(りくとぎょ)」が行われます。
船渡御の乗船場までの神輿渡御に随伴して約4キロを約3000人が行列する。行列は先頭が猿田彦で、続いて采女(うねめ)、花笠、猩々の人形を乗せた山車、牛曳童児などの第一陣、御羽車や神霊を移した御鳳輦のある第二陣、玉神輿と鳳神輿の第三陣によって構成されます。
そして夜は、大川(旧淀川)に多くの船が行き交う「船渡御(ふなとぎょ)」が行われます。船は4種類に分けられ、御神霊をのせた御鳳輦奉安船、地車囃子船や鳳神輿・玉御輿など神に仕える講社の供奉船、神をお迎えする風流人形を飾った御迎船、協賛団体や市民船などの奉拝船、その他どんどこ船や子どもどんどこ船、落語船など祭を盛り上げるため自由に航行できる列外船があります。奉安船や供奉船が天神橋のたもとから出航して大川を遡り、反転して下る航路となります。
そして花火はその奉納のため、つまり天神さまに見ていただくために打ち上げられます。