千日前道具屋筋商店街 理事長 千田忠司さんに万博の思い出を聞きました
明治時代から古道具屋や雑貨店が並んでいた千日前道具屋筋商店街は、太平洋戦争の大阪大空襲で焼け野原となり、当時は米兵向けのカフェやバーに商売替えをする店主さんも少なからずいたそうです。と話す、同商店街理事長の千田忠司さん。
それから数十年。金物屋を再開する店舗が少しずつ増え、大阪万博の頃には、東は東京の「かっぱ橋道具街」、西は「千日前道具屋筋商店街」と、飲食店経営をめざす人なら誰もが知るような存在に。夜行列車に乗って大阪に向かい、早朝から開店を待つ人たちで賑わいを見せていました。店頭に並べさえすれば飛ぶように物が売れる。そんな時代だったようです。
今では定番の大阪名物であるたこ焼きも、この時代はまだブームの走りだったとか。新しいご当地グルメとして人気に火がつき、仕入れついでに家族で大阪を旅行する観光客が、こぞって食べ歩きを楽しんでいました。同商店街の各店舗でも専用の調理器具を扱うようになり、その過程で丸い窪みのあるおなじみの鉄板が広まりました。同商店街にアーケードが設置されたのも大阪万博の年です。
この頃を境に古道具を取り扱う店舗は少なくなり、新しい料理道具を求める顧客が全国から訪れるようになりました。顧客の要望に応える形でものづくりにまで商いの範囲を広げる店主さんが増え、町工場、職人の方々とのつながりも築かれます。
「つくる」と「売る」の関係性は今現在、店舗を切り盛りする世代にもしっかりと受け継がれ、統一ブランド「絆具(つなぐ)」の商品展開にも生かされています。